■「笑吾」ってどんなやつ? 恥ずかしながらの自己紹介です。

☆ 作陶を始めて40年
 といっても、勤めをもつ身、余暇のわずかな時間を割いてのやっつけ仕事
になることが多い。それはそれでよい味がでると言う人もいるが、自分とし
ては欲求不満が残る。一度、時間に制約のない作品を納得のいくまで作って
みたいと思っていた。作陶三昧の生活!それは長年の渇望だった。


『なごみ』1986年10月号(淡交社)で紹介された

三村展出品(91年)
 
☆ 皿山の原風景
 生まれ育った金沢の町はずれに、九谷焼の工場があった。その裏の空き地には、陶磁器の破片や割れ物の廃棄物が山積みにされていた。
子どもたちは勝手に「皿山」と呼んでいたが、工場の屋根の高さぐらいに見えた。この瓦礫の山に、素焼きのままの未完成品や、絵付けを
施す前の白生地だが完品に近いキズ物を見つけることもあった。 家から少し離れた寂しい工場街だったし、監視の人も回ってこない絶好
の遊び場だった。学校の早く終わった時など、姉たちに連れられたり、近所の子らを誘って遊びに出かけた。「今日は皿山へ行こうか?」は、
宝島へ出かけるような密やかな興奮のひびきがあった。
☆宝の山

 実際に、この山は子供たちにとって宝の山だった。ここへ来ると、私たちはまず完品に近い皿を探し出すことに熱中した。割れた皿をはね
のけながら、誰が一番に獲物をもってテッペンにたどり着けるか?競争だった。狭い頂上にお皿を並べて自慢し合った。よい品を見つけると
駆け上がって、「お山の大将、我ひとり」と快哉を挙げて喜んだ。 皿は大事に持ち帰って、犬や猫の食事椀にすることもあったが、たいが
いは姉のママゴト遊びの主役になっていたようだ。いつの間にか植木鉢の受け皿になったり、近所の兄さんに取り上げられ空手遊びで割られ
たこともあった。そのほかにも陶にまつわる私の想い出は多い。小学校の通学路の途中に陶芸家の工房があった話や作陶を始めたきっかけは、
以前にこのシリーズで書いたことがある。祖父も陶磁器が好きだったようで、幼い頃は骨董品が目に触れる近さにあった。戦中戦後、母子家
庭だった我が家の生計を助けるため彼らは消えていった。 作陶はそんな我が身の血が騒ぐのかも知れない。

ヤング・オールドは絶学無憂